「孤独」とどう向き合えばよいのか、どう折り合いをつけるのか、その方法を学ぶ機会が減ってしまったのでしょうか。それとも、人間そのものが精神的に弱くなってしまったのでしょうか。
ロダンが21世紀を生きていたら、私たちにどんな言葉を投げかけるか、聞いてみたいと思いました。
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『ロダン カミーユと永遠のアトリエ』(原題:Rodin)
オーギュスト・ロダンとカミーユ・クローデル。
この知られ過ぎた2人の関係は、大げさな演出を加えなくとも、十分にドラマチックだ。ロダンの没後100年を記念してジャック・ドワイヨン監督が依頼を受けたのも、当初は史実に忠実なロダンのドキュメンタリー作品だった。しかし彼が選んだのは、自らのイマジネーションを加えて書いた脚本で「フィクションを撮る」という選択だった。フィクションはときとして、事実のみを並べる以上に真実を語ることがある。この作品もしかり。カミーユが、自分が中絶したときのことをロダンになじるシーンがある。そのときにロダンがつぶやいたひと言に、芸術家の性(さが)を感じずにいられない。この映画は1880年、ロダンが40歳の頃から始まる。国から発注された『地獄の門』の製作が思うように進まずに悩むロダン。彼を支えるのは、歯に衣着せぬ言葉で本質をつくカミーユ。そして、カミーユや他のモデルに嫉妬をむき出しにしながらも、決してロダンから離れないローズ。よく知られた人間模様だが、ドワイヨン監督のカメラがとらえたのは、「優柔不断でずるい男」ではなく、「孤独で劣等感の強い男」だった。「ロダンには、悩みを打ち明けられるような相手も、友人もほとんどいなかった」と主演のヴァンサン・ランドンは語る。だからこそ、ロダンは彫刻に打ち込み、時代を超えて人々の理解を求め続けたのだろう。この映画のロダンを知ったとき、彼の彫刻の数々に今でも熱い血がたぎっていることを、感じ取れるのではないだろうか。そして、日本に住む私たちにとって忘れがたいシーンも。箱根
彫刻の森美術館のバルザック像の前で遊ぶ子供たちを見ていたら、嬉しくて愛おしくて涙ぐんでしまった。ドワイヨン監督だからこそ、子供たちをこんなにいきいきと撮ることができたのだろう、きっと。
<本ブログ内リンク>
『ロダン映画 カミーユと永遠のアトリエ』 の1シーンで、セザンヌがロダンに敬意を表してひざまずくシーンがあります。セザンヌが主人公となっているこの映画と合わせてみると、時代の息吹を感じることができます。
『セザンヌと過ごした時間』(Cezanne et moi)
https://filmsandmusiconmymind.blogspot.jp/2017/08/cezanne-et-moi.html
<公式サイト>
『ロダン カミーユと永遠のアトリエ』
http://rodin100.com
脚本・監督: ジャック・ドワイヨン
出演: ヴァンサン・ランドン
イジア・イジュラン
セヴリーヌ・カネル ほか
2017 年/フランス/120 分/ PG12(映倫区分)
配給: 松竹 コムストック・グループ
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